学校行事
2024.11.02
2学年 ハワイ修学旅行(3日目)
修学旅行3日目、起床した生徒たちはツアーデスクで朝の点呼です。
3日目午前は、ワイキキのシンボル、ダイヤモンドヘッドに上りました。
30万年前の火山活動で誕生したクレーターであるダイヤモンドヘッドは、先住民の言葉で「レアヒ」(マグロの額、または、炎の渦巻き)とよばれていたそうです。ハワイの神話では、火山の女神ペレが住みかとして掘った穴とされています。
我々は、クレーターの中心から外延部の頂を目指し登っていきました。
20世紀の前半には軍の施設となっていたため、砲台跡や見張り台が残っています。
生徒たちは、眼下に広がるホノルルの市街や果てしなくひろがる太平洋を目にあたりにし、疲れが一時的に吹き飛んだようでした。
登山後、バスでホノルル市街を西に抜け、パールハーバー(真珠湾)を訪れました。
日本は中華民国との戦争をめぐってアメリカと関係が悪化していましたが、外交交渉に見切りをつけ、1941年12月7日早朝(日本時間8日未明)、航空兵力によってハワイのアメリカ艦隊に対する奇襲攻撃を行い、戦争を開始しました。
パールハーバーには、日米戦争にまつわる施設が複数あります。1100人を艦内に残したまま今も海中に船体が沈む戦艦アリゾナ記念館。日本やアメリカの軍用機を展示する太平洋航空博物館。1944年8月、沖縄から疎開する学童などを乗せた対馬丸を沈めたアメリカ海軍の潜水艦ボーフィンや日本海軍の人間魚雷「回天」がある太平洋艦隊潜水艦博物館。
今回は、戦艦ミズーリ記念館(https://ussmissouri.org/jp/)を訪れました。
日本の戦艦大和・武蔵と同時代のアイオワ級3番艦であるミズーリは、全長270.4m、全幅33m、高さ66m、40センチ主砲9門を備え、1998年からパールハーバーに係留されています。
岸壁から階段をつたって甲板に上り、ガイドの方の案内で艦上を見学しました。
艦橋の下の右舷01デッキでは、1945年9月2日に日本が連合国に対する降伏文書に調印した式場を目にしました。ここに掲示してある星条旗は、ペリーが最初に日本に来航した1853年当時のものであり、翌年ペリーが江戸幕府の回答を受け取りに停泊した東京湾で、日本の降伏文書調印式が行われたのです。
右舷艦尾近くでは、1945年4月11日にミズーリが鹿児島喜界島沖でゼロ戦の体当たり攻撃を受けた痕跡である舷側のへこみを見学しました。
翌日朝、ミズーリ艦長のキャラハン大佐の命で、岡山県出身の石野節雄二等飛行兵曹(19歳)とみられる兵士の遺体は急遽作られた旭日旗に包まれ、水葬が執り行われました。
(https://www.sankei.com/article/20151130-VWRLVJW4IFOBRPQZIERCLHC3XE/)
艦をおりた生徒たちは、カレーとポテトサラダのランチをとりました。
山と甲板を歩き回った生徒たちの食は進んでいました。
ホテルでしばし休憩ののち、ホノルル港に向かいました。
18世紀末、イギリス船の船長がここを「きれいな避難所」とよんだことから、「守られた港」の意であるホノルル(Honolulu)の地名が生まれたそうです。
波止場でウェルカムフラダンスでの出迎えを受け、【スター・オブ・ホノルル号】に乗船しです。
17時30分、船は岸壁を離れ、いよいよクルーズがはじまりました。
18時ごろ、太平洋に夕日が沈みます。
ハワイ産の野菜やアメリカ産の牛肉をビュッフェスタイルで楽しんでいるうちに、フラのレッスンの時間となりました。多くの生徒がフラを体験してみようとステージに集まりました。
食後のデザートやコーヒーを楽しんだり、展望デッキでくつろいだりする生徒たちの姿も見られました。
19時前、ダンサーによる“ポリネシアンジャーニー”ショーがはじまりました。優美なフランダンスとは違い、打楽器のリズムに合わせたダンサーの激しい体の動きに生徒たちの目はくぎ付けでした。
ショーの最後は、クルーと生徒が一体となってダンスを踊りました。
ハワイ最後の夜、クルーズを楽しんだ生徒たちはバスでホテルに戻りました。
2年生全体での行動は、今夜で最後です。
明日はいよいよ帰路につきます。